都市開発づくり
第二次大戦後の戦災復興の仕上げ期の中で、ようやく日本の工業力が着実に実を結び始めた時期(1962年)に制定されたのが「全国総合開発計画」です。
おおまかに言えば政府が陣頭指揮をしながら、国民的コンセンサスを得て、自然の山や海を崩して、巨大なコンビナートとベッドタウンをつくって労働集約をした結果として、京浜、京葉工業地帯を中心として、都市開発が列島の機関車の役割を演じるわけです。
平和産業としての都市開発づくりの中での拠点として都市を位置づけたもので、それが結果として都市における人口の集中化を招いたわけです。
激しい首都圏への人口の集中化の結果、そういった工場というのが全国にばらまくべきであるということで、1969年に制定されたのが第二次全国総合開発、いわゆる「新全総」計画です。
その中で、工場の地方への分散を始め、東京湾と同じように、伊勢湾、大阪湾、博多湾、志布志湾から苫小牧に至るまで工場を分散して、工場城下町というのを全国につくる。
工場さえ持っていけば、そこに労働力が張りついて、ベッドタウンができます。
こうして全国に工場を分散した時期が新全総です。
そして、8年後の1977年に発動したのが「三全総」です。
そこで提起されたのが、定住圏構想です。
これ以上地方に分散させる必要はない、むしろ地方の充実を図り、今ある工場とベッドタウンを中心として、そこの定住圏を唱えて、そこでの都市開発づくり、政郷づくりというのが望ましいというものです。
これで第二次産業時代の日本列島の都市開発というのが戦災復興ではなくて、新しい近代都市開発として、定着すると思えたわけです。
それが10年を経ずして「4全総」'が発動された背景には、日本は工場都市、工業国家としてよりは、国際化、情報化の波の中でソフト産業国という形での生き残りしかあり得ないのではないか、という考えです。
産業構造の大転換が行われる中で、コンベンションセンターとか、文化施設、教育施設等の基盤整備を行おうというものです。
しかし、現在ではまだ産業構造の転換の後に、どういう都市開発、どういう職場が生まれるのか、どういう都市開発の基盤整備が必要なのかが明確ではありません。
しかもそのために何をやっていいのか、公共公益投資として、あるいは民活の投資のあり方としては何をやっていいのかわかっていないというのが今の状態ではないかと思います。